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ナーホエール(蒸気コルベット)
ナーホエール(HWS Narwhal)は、ブランチ海軍の蒸気コルベット。
第2東洋艦隊旗艦として戦倭國に派遣され、主に通商護衛を主な任務とした。
ムギナマ事件に端を発した聖暦1851年のツ舞戦争や1854年のパールランド反乱に参戦したことで知られる。
1842年に就役、1847年までは各植民地での軍艦外交や商船護衛などにあたり、1848年に第2東洋艦隊旗艦として戦倭國に派遣された。
1857年に戦倭國の淡美海域を航行中に座礁沈没、1858年に軍籍を抹消された。
ブランチ海軍ではその後の指導層が乗艦していたこともあり、装甲艦への過渡期を代表する船である。
船歴
~就役から戦倭國派遣まで~
1840年、ブランチ海軍は軍艦の多くに蒸気船を導入しており、本艦は主に植民地派遣用の小型艦として建造された。
当時東洋では民間船舶が海賊に襲われる被害が出ていたことから、1842年からは華央の紺東島に派遣され、商船護衛や沿岸の警備に就いていた。
1848年には東洋艦隊の分遣隊となる東洋第2艦隊の旗艦として戦倭國に派遣された。
~ツ舞戦争~
1850年6月、戦倭國のムギナマにおいてブランチの商人一行がツマサ藩士に殺傷されるムギナマ事件が発生。
ブランチは幕府に賠償金を要求し、ツマサ藩側の当事者の引き渡しを要求した。しかし幕府は賠償金交渉には応じたものの、
引渡し要求にはツマサ藩とブランチによる直接交渉を提案した。
しかし計5度にわたる在戦倭國ブランチ領事とツマサ藩の交渉は主張が対立するまま平行線を辿り決裂し、
ブランチ本国はツマサ藩への武力行使を辞さない方針を掲げ、1851年にツマサ藩に艦隊を派遣することとなった。
ブランチ艦隊はツマサ藩への海上封鎖を行い、複数の商船を拿捕し、緊張が高まった。
3月にはツマサ藩の練習船「一刀丸」に臨検を行おうとしたナーホエールとこれに抵抗した一刀丸の間で砲撃戦となり、
ツマサ藩の砲台からも支援砲撃が開始され開戦となった。
ブランチ艦隊はツマサ藩の東ヶ崎島砲台を攻撃し、海兵隊が一時これを占領したものの、
ツマサ藩の決死隊が夜間の切り込みを敢行し海兵隊が壊滅。
その後ブランチ艦隊は沖合いに移動し、複数の砲台と砲撃戦を行なったが、潮流に流され砲台に近くとツマサ藩側の砲弾がナーホエールに直撃し、ライオネル提督が戦死すると艦隊は撤退することとなった。
ブランチ側はこの戦役への増援が望めないこともあり、最終的にツマサ藩と講話を結ぶこととなる。
ブランチ本国国会では報復論が叫ばれることもあったが、海軍は戦争の継続は不可能との立場を崩さず、
ムギナマ事件の被害者並びに遺族への賠償とツマサ藩によるブランチ製の船舶2隻の購入、ブランチの南洋貿易優遇を締結することとなった。
最終的にムギナマ事件のツマサ藩当事者がブランチ側に引渡されることはなかった。
~海軍の誤算~
ブランチ海軍はツマサ藩の戦力を軽視しており、海上封鎖でツマサ藩が短期に妥協すると考えていた。しかしツマサ藩はこれに抵抗し、
また派遣されたブランチ艦隊では完全な海上封鎖を行うことは困難であった。
またツマサ藩側がブランチの艦隊派遣を早期に警戒し、沿岸部の防備を強化していたこともその後の艦隊の損害を大きくした。
当時各地の植民地で起こっていた反舞反乱により増援が望めないことを把握していたにも関わらず艦隊の派遣を強行したことで、
予想よりも長期化した戦闘に対応出来なくなった。
最終的にブランチ艦隊は旗艦ナーホエールの大破、構成の全軍艦が小破し、指揮官の死亡、海兵隊の壊滅という大損害を被ることとなった。