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ツ舞戦争

 

 

ツ舞戦争は聖暦1851年に戦倭國ツマサ藩とブランチ大公国との間で行われた戦争。

ブランチでは主にツマサ戦役、ツ舞砲撃戦として語られることが多い。

ツマサ藩としては初めての大規模な対外戦争であり、ブランチ大公国には東洋における初めての敗戦となった。

この戦争は列強と一国の構成国である藩との戦争ではあったが、列強が武力により戦倭國を征服することを諦めさせるきっかけとなったことから戦倭國史、世界史においては、幕末の大きな出来事として扱われている。

[ブランチの戦倭國進出]

当時の列強による植民地競争において、ブランチ大公国も各国とこれを競う状況にあり、

東洋への列強の手は戦倭國の隣国である華央大陸にまで延びていた。

特にブランチは華央での貿易特権の獲得に焦点を置き、機会に乗じて軍事力を背景に華央の地域を実質植民地化していった。

代表的なものとしては聖暦1843年に起こった、ブランチからのアヘン流入を原因とする龍王朝との舞龍戦争で、

ブランチはこれに勝利することで、東洋の貿易拠点となっていた紺東島を支配下に収めていた。

戦倭國との接触は聖暦1838年であり、この際は主に捕鯨船の補給を目的として港湾への出入りを幕府に要求し、

翌39年には戦舞通商条約を締結し、列強各国に先駆けて戦倭國での貿易特権などを得た。

ブランチ大公国は戦倭國との外交当初、各列強が同様に戦倭國に接触することを警戒し、

武力による屈服を計画していたことが明らかになっている。

これはブランチの極東における外交窓口を担ったブランチ東洋商会理事・ウィングスレー卿の「極東視察録」にも記されており、

当時のブランチの姿勢が分かるものとなっている。

「昨今の極東、特に戦倭國では各国の外交活動が積極的に行われており、他国が次に狙うのはこの地であることは疑う余地なし。しかし華央と戦倭國で根本的に異なるのは、武士とされる特権階級が団結しており各集団は余所者に用心深く、その分裂工作は容易ではない。これは戦倭國政府(幕府)が、我が国が華央で採る政策を分析している為である。戦倭國の戦力は旧式の装備が多いと思われていたが、近年では他国から軍事顧問を招くなど組織改革を早めている傾向があり、時を逸せば我が国の優位は低下する可能性がある。交渉が停滞するようなことがあれば、軍事的行動を伴ってでもこの地を占領することを検討しなければならない。」

最終的にこの報告は大公エドワールまで上げられ、

ブランチ本国も華央に駐屯していた大規模な部隊を戦倭國に投入する作戦計画を検討していたことが判明している。

しかし戦倭國はその後も巧みな外交を行い、ブランチが武力行動を起こすきっかけを与えることはなかった。

 

[ムギナマ事件]

聖暦1850年6月6日。

ムギナマの街道で、ツマサ藩の大名行列に、戦倭國観光に訪れていたブランチの綿花買付人一行が乱入し、斬りつけられ死亡する事件が発生。

在戦倭國ブランチ総領事のシュライデン卿が幕府に乗り込み抗議する事態となった。

これを好機とブランチ側は幕府に賠償交渉を開始したが、ブランチの思惑通りには行かず、幕府は被害者に対する賠償には応じたものの、

首謀者の引渡し交渉は当事者のツマサ藩と行うように求めた。

ブランチとツマサ藩は6月から12月までに計5回の交渉を行ったが、ツマサ藩は無礼討ちなどは国内法に反しておらず、

そもそもの違法性を認めず、逆に大名行列に進入した行為に対する謝罪をブランチ側に求めるなど主張が真向から対立し、

両者の交渉は一度打ち切られた。

翌51年2月にはブランチ国会において、ツマサ藩への武力行使も辞さない交渉方針が決定されると、

同月10日に戦倭國に派遣されていた東洋第2艦隊がツマサ藩の海上封鎖に投入されることとなった。

 

[海上封鎖]

ツマサ藩に派遣されたライオネル提督指揮の東洋第2艦隊は6月14日よりツマサ藩海域で海上封鎖を開始した。

しかし旗艦のナーホエール以下4隻の艦隊で同海域を完全に封鎖することは困難であり、

ツマサ藩向けと思われる商船を臨検拿捕するなどしていた。

同時にブランチはツマサ藩へ海上封鎖を解く条件として全要求を承諾することを記した書簡を送っていたが、

一向に回答がないまま2週間が経過していた。

 

[開戦]

6月28日午前8時ごろ、航行中のツマサ藩練習船「一刀丸」にナーホエールが近づくと臨検と称して停船を求めたが、

一刀丸がこれに応じずナーホエールが威嚇発砲をしたところ、一刀丸も発砲し、両者で砲撃戦が発生。

同時にツマサ藩の各砲台も砲撃をはじめた。

この戦闘で一刀丸が小破炎上し、逃走を開始。

ブランチ艦隊はこれを追うかたちとなったが、途中で東ヶ崎島砲台を攻撃、翌29日には海兵隊が上陸しこれを占領した。

東ヶ崎島はツマサ藩の他の砲台からの攻撃が届かず、ツマサ側の海上戦力は皆無と判断したブランチ艦隊は一時的に東ヶ崎島周辺に停泊した。

 

[ツマサ藩の反撃とブランチ艦隊の撤退]

30日未明、ツマサ藩の若手藩士で構成された決死隊が小型の船で東ヶ崎島に上陸。斬り込みを敢行し、ブランチ海兵隊は意表を突かれ壊滅。

艦隊は東ヶ崎島を離れ、30日午後には城下町への砲撃を行う。

しかし潮に流された旗艦のナーホエールが、鬼門ノ丸砲台の射程内に入ってしまい、砲弾が直撃し、指揮官のライオネル提督が戦死してしまう。

またナーホエールを援護しようと他の軍艦も次々と射程内に進入した為に損傷や死傷者が続出。

指揮系統が乱れ、戦闘継続に支障が出始めた為、7月1日早朝に撤退を開始した。

ブランチ側の被害は全艦艇の被害(ナーホエール:大破、マーメイド:中破、グッドスピード:小破、サウザンライン:小破)、死者19名、重軽傷37名。一方のツマサ藩は一刀丸が小破、死者4名、重軽傷114名であった。

 

[講和へ]

艦隊撤退の報がもたらされた総領事館では、戦闘継続の主張があったが、艦隊側は戦闘の継続は困難との立場を変えなかった。

また当時、各植民地では連日のように反舞反乱が起こっており、戦倭國への増援は望めなかった。

無論ブランチ惨敗の報は、幕府も把握しており事態を長引かせれば戦倭國でのブランチの立場が悪化する危険性を危惧した総領事のシュライデンは、ツマサ藩との講和交渉に臨むことを決定した。

またツマサ藩側もブランチ艦隊を追払うことに成功はしたものの戦闘による城下町の炎上などで大規模な被害を出しており、

ブランチ同様に戦闘の継続は難しい状況であった。

7月10日より3日間連続で行われたツマサ藩との交渉の末、「ムギナマ事件の被害者遺族への見舞金支払い」「ツマサ藩によるブランチ製の船舶2隻の購入」「ブランチの南洋貿易優遇」という内容で講和が結ばれた。

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